そろばん:21世紀の知能育成ツール

太古の昔、計算のために考案されたそろばんが21世紀の現在、全国7,924(経済産業大臣官房調査統計グループ、2015年)のそろばん教室(珠算学校)で学ばれ、次世代に脈々と伝承されています。それはそろばんが単に計算力向上のためのツールではなく、他の能力を育成する教育ツールだからです。 21世紀の知識基盤社会では知識に加え、「新しい能力」(松下、2011)が求められています。「新しい能力」は「コモン・コアと21世紀型スキル」(USA)、“DeSeCo”(OECD)、「キー・コンピテンシー」(EU)、日本における「生きる力」(文部科学省)、「社会人基礎力」(経済産業省)、「グローバル人材3要素」(グローバル人材育成推進会議)などの総称です。それぞれの機関や国家がコンピテンシー、スキル、認知能力、非認知能力、知能、思考力、リテラシーなどのような様々な表現を使い、労働市場が必要とする「新しい能力」を洗い出しています。ノーベル賞を受賞した経済学者ヘックマンも認知・非認知能力育成の重要性を指摘しています。以上の機関や国家との相違は彼が育成時期を示している点です。経済学者として教育に関する費用対効果の観点からその介入時期については就学前と提言しています。 教育界において知識以外の能力の重要性に端緒を開いたのはハーバード教育学大学院の認知心理学者ハワード・ガードナー(Howard Gardner)と言って良いでしょう。 ガードナーは不幸にも脳損傷を受けた人々を被験者として研究をした際、人間に7つ (後8つ )の知能 があることを発見し、1983年に“Frames of Mind: The Theory of Multiple Intelligences ”にまとめました。ここで彼が標榜した内容を4点紹介します。第一に、IQ (Intelligence Quotient:知能指数)人間に備わっている能力の一部を表したものにすぎないということです。IQ偏重社会に対峙するためにGardnerは人間の能力を表現するために敢えて「知能(intelligences)」を使用しています。第2に人間に備わっている8つの知能(言語的知能、論理数学的知能、空間的知能、音楽的知能、身体運動感覚的知能、*博物学者的知能、対人的知能、内省的知能)には従来、認知能力として捉えられていたものに加えて非認知能力に深く関わる対人的知能や内省的知能(遠藤、2015)が含まれているということです。第3に筆記試験では言語的知能、論理数学的知能と記憶力が主に評価され、他の6つの知能が適切に評価されていません。ガードナーはすべての知能を育成することが必要だと述べています。The Theory of Multiple Intelligences (MI理論)が発表されると同時に合衆国を始めとし南米、欧州、2000年代に入り中国、インド、韓国の教育者から絶大の支持を得ました。それは教育者が経験上、IQが高く成績が優れていても必ずしも社会で成功できないことを知っていたからです。第4に知能プロファイルは個々に異なるので教育する際には複数の提示方法(エントリーポイント)をとるべきであるということです。 さて、そろばんの学習でどのような知能が育成できるでしょうか。適切な方法でそろばんを学習すれば、論理数学的知能、空間的知能、身体運動感覚的知能、内省的知能を伸長させることができると言えます。 そろばん学習では特徴あるリズムで読み上げられる数字に集中し、そろばんの珠で数字を表出させながら計算します。読み上げる者とそろばんを入れる者の無言のコミュニケーションが成立し、互いにとって適切なスピードを見つけて効率を高めていくのです。問題解決のために思考し、体の一部を使って解決することを身体運動感覚的知能と言います。そろばんでは様々な複雑な計算をするために考えながら指を動かし解いていきますから、この学習過程で論理数学的知能と身体運動感覚的知能が育成されます。論理数学的知能と空間的知能がそろばんにより高まると、珠の動きをイメージしながら計算できるようになります。知能プロファイルは個々人により違いますが、暗算スキルを習得するまでに要する時間は異なりますが論理数学的知能と空間的知能が高い人でさえも暗算スキル獲得には毎日練習を「やり抜く力」が必須です。この「やり抜く力」は自己を知り、自己の目標を設定し、それを達成するために動機を維持する内省的知能と深い関わりがあります。 トモエMIアカデミーは英語によるそろばん指導のカリキュラムを開発し16年になります。英語で数字を読むことは英語初級者には容易ではありません。しかしアカデミックな場面でもビジネスの場面でも必ず数字は登場します。そろばんは英語の数字読みの練習に適しています。というのは3桁毎に定位点が付いているからです。トモエMIアカデミーの学習者は8桁の数字さえ、メモを取らずにそろばんに表出させ答えます。8桁の数字を頭の中のそろばんでイメージし、それを英語で読む学習者もいます。そろばんを学びながら、英語を無意識に習得し、オーセンティックな場面で英語を聞き、話しているのです。つまり、言語的知能を育成しています。 「理解」とは筆記試験で高得点をとることではなく、学んだ知識を実生活で使うことができるということです。理解を実感することは難しいのですが、そろばんのクラスでは体験できます。英語で読み上げられる数字をそろばんで加減乗除する、計算結果を英語で答える、先生の英語による指示を聞き、それに反応する、理解しているからできるのです。そろばんのクラス以外の場所でも計算や英語を使う場面はあり、理解を実感するでしょう。理解は新たな学習への意欲を誘発させます。 トモエMIアカデミーは個々人に応じた指導をするために、マンツーマン指導やティームティーチング指導(一人の生徒に対して、又は複数の生徒に対して)、コンピュータを使った指導をしています。毎時、個々人の達成度を複数の指導者が確認しあっています。また、学習者にもその達成度を省察させるために授業後にコミュニケーションをとっています。このように指導者(大人)と学習者(子供)がコミュニケーションをとることにより、マナーや目上の者との会話の持続方法を学ぶことができます。これにより対人的知能を醸成することもできます。 トモエMIアカデミーのそろばん学習では4つの知能に加え対人的知能と言語的知能が育成されています。この6つの知能は知的基盤社会が必要とする「新しい能力」に深く関わっています。 そろばんは今、21世紀が求める知能の育成ツールという新しい使命を担っています。MI理論が提唱する8つの知能に刮目し、様々な機関や国家が提言する細分化された「新しい能力」を整理すれば、新しい教育の枠組みも可能になるでしょう。
*博物学者的知能 ある文化的な背景で問題解決を行うために起動する情報処理をするための生物心理学的な潜在能力、又はある文化圏で価値のあるものを創り出す生物心理学的な潜在能力 通常単数形だが、複数の知能があるのでガードナーは複数形で表記している。
参考文献 :
遠藤 利彦.(2017) 平成27年度プロジェクト研究報告書. 初等中等教育-非認知的(社会情緒的)能力の発達と科学的検討手法についての研究に関する報告 経済産業大臣官房調査統計グループ.(2015) 2014年特定産業実態調査報告書 -教養・技能教授業編.Retrieved from http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/tokusabizi/result-2/h26/pdf/h26report28.pdf on June 26, 2018. 松下佳代. (2011). <新しい能力>による教育の変容–DeSeCo キー・コンピテンシーと PISA リテラシーの検討 (特集仕事に「学力」は不要か?–学力研究の最前線). 日本労働研究雑誌, 53(9), 39-49. Gardner, Howard.(1983) “Frames of Mind: The Theory of Multiple Intelligences”. New York: Basic Books. Heckman, James. (2011) The Economics of Inequality: The Value of Early Childhood Education. American Educator, 35(1), 31.

プロフィール

石渡 圭子(イシワタ ケイコ)/ ISHIWATA Keiko
元横浜国立大学国際社会研究院准教授 日本MI研究会会長代行 MI(Multiple Intelligences) Theory実践者。 Multiple Intelligences around the World (Gardner et al (eds), 2009) 7章を共同執筆。 ハーバード教育大学院Project Zero主催の研究会等で研鑽を積む。 国内、北京、香港などでMIの実践例を紹介。